雑記帳第39回「多賀城創建1,300年の歴史」


 今年は、多賀城創建1,300年の節目の年である。復元された多賀城南門を見学しようと仙台南支部を中心に女性会員等交流事業が計画され、参加したのでその概要を説明する。

1  特別史跡多賀城跡とは日本三大史跡に数えられ太宰府跡※1・平城京跡※2と並ぶ重要な遺跡である。
 奈良時代の神亀元年(724)聖武天皇は、律令政府の統治拠点として、陸奥国の安寧を願って多賀城に鎮守府を置く。大野朝臣東人は東北地方の政治・文化・軍事の拠点とするため仙台平野を一望できる丘陵地に多賀城を創建する。
 平安時代になって前進基地が胆沢城※3に移ると鎮守府も移されたが、その後も多賀城は国府の所在地として、室町時代初期までも重要な意義をもった。
 多賀城国府としては、永保3年(1083)の後三年の役の頃まで約359年間に及ぶ。
  ※1:大宰府→天智天皇は、天智3年(664)福岡県太宰府市に設置。
  ※2:平城京→元明天皇は、和銅3年(710)都を藤原京から平城京(奈良市)に遷都。
  ※3:胆沢城→坂上田村麻呂は、延暦21年(802)岩手県奥州市に造営。

2 重要文化財多賀城碑が令和6年(2024)8月27日付け官報で国宝として告示される。
 宮城県内では23年ぶり7件目の指定であり、大崎八幡宮(仙台市)・瑞巌寺(松島町)と並ぶ。
 古代東北の政治・文化の中心だった多賀城が「今年1,300年」を迎えることを示す唯一の碑は鎮守将軍藤原朝獦(あさかり)が奈良時代の天平宝字6年(762)に多賀城の大規模改修を祈念して修造。
 碑は花崗岩質砂岩で高さ196cm、幅約103cm、厚さ72cmで碑面は磨かれ縦1.3m、幅80cmの長方形に線で囲み、欄外上に大きく「西」と刻み西を正面として立っている。
 碑文には多賀城の位置を、欄内には141字の文字が刻んでいる。

・去京一千五百里「京を去ること一千五百里 」 (802.5km)
・去蝦夷国境一百廿里「蝦夷国境を去ること一百二十里」(64.2km)
・去常陸国境四百十二里「常陸国境を去ること四百十二里」(220.42km)
・去下野国境二百七十四里「下野国境を去ること二百七十四里」 (146.59km)
・去靺鞨国境(まっかつのくにさかい)三千里「靺鞨国境を去ること三千里」(1605.0km)
と記し、この城は神亀元年(724)に、大野朝臣東人が建造し、碑は天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝獦が修造し、天平宝字6年12月1日と記している。
※靺鞨国境三千里は、実数ではなく遠いということを示すもので、当時の一里は約535mである。)

3 多賀城南門復元
 南門の復元工事の起工式が、令和2年(2020)6月8日に現地で行われ、立柱式が令和2年(2020)10月8日に行われた。復元事業費は、約16億4千万円(南門・築地塀・地形修復等)である。
 南門は、政庁第2期(762~782)の原寸大で、クリの木材を使い甦らせ、朱塗りの木造2層構造で高さ14.546m、桁行10.5m、梁行6.6m。全長約45mの築地塀も建てられる。
 令和6年(2024)11月1日に初公開されたが、完全公開は工事完了後の令和7年4月の予定となっている。

 以上のように、奈良・平安時代に東北の政治・軍事の中心であった多賀城の歴史を目にし、現在まで歩みを振り返り、先人たちの弛まぬ努力により、現在の東北があることに思いを寄せてみてはいかがでしょうか。

副会長 武地 哲三