雑記帳第45回「勾当台クラブ女性会員等交流会の開催『長町歴史探訪の旅』」


 仙台南支部では、地元の貴重な歴史遺産について勉強しようとの機運が高まり、11月に標記交流会を開催することにした。開催に当たり他支部にも声掛けしたところ4支部12名の参加を頂くことができた。


 最初に向かったのは、長町駅から近い「舞臺八幡神社」。到着すると案内をして頂いた方から、皆さんは神社の鳥居をくぐるときは一礼して入ってきましたか、また、参道は神様の通り道であることから、左右どちらかの端を歩くのが正しい作法であること、真ん中の通りは神様が歩くところです、とのご指導を頂きながら参拝をした。


 「舞臺八幡神社」と「比来岐神社」の二つの神社と「淵上蛸薬師瑠璃光如来」の仏様からなる通称「蛸薬師如来」と知れわたる神社である。


 「舞臺八幡神社」は、誓願成就の神様で合格・良縁・安産・商売繁盛等の願いを祈願するところである。由来は後冷泉天皇の時代天喜4年(1056)陸奥に乱が起こり、陸奥守鎮守府将軍源頼義が勅命を受け出発の際、河内郡平岡八幡宮に祈り、奥州名取郡舞臺の地に八幡大神を奉る。「比来岐神社」は、疫病・流行風邪が病蔓延したとき、病を鎮めんとする神様。天明4年(1784)に愛知県津島天王より勧請し鎮座せしめたとされる。


 「淵上蛸薬師瑠璃光如来」は、親孝行の仏様で健武元年(1334)権中納言藤原朝臣藤房北山の厳蔵入り僧となり、山城国教徒西洞院蛸薬師如来に祈誓をかけ、東国修行の際仏像を勘請して、奥州名取郡平岡村二ツ沢下流渕上蛸薬師如来と尊崇して村人を護らしめたという。


 次に向かった近くの懇親会場では、次のような四ツ谷用水の話をさせていただいた。


 伊達政宗が1601年仙台城下入りしたころは、現在の市街地は沼や湿地で葦原のしげる未開の地であった。最初に手掛けたのは、岩出山から5万人を移住させたことから、乾地化を図るため慶長7年(1602)排水路の建設を開始する。また、生活するためには水の確保が必要であった。


 幸いにも湿地帯であることから湧水や井戸を掘ることにより飲料水を確保することができた。しかし、居住人口の増加や農業用水を確保するためには、広瀬川の水を台地に導水する必要となり、四ツ谷用水の建設を計画する。仙台城下は広瀬川が形成した河岸段丘であることから自然流下で水を引くことができる恵まれた台地となっている。


 四ツ谷用水の計画は、川村孫兵衛重吉が行ったとされ、寛永4年(1627)に着工。最初の取水は八幡町の山上清水の湧水を引き入れ寛永6年(1629)概成する。


 その後城下の拡張に伴い居住人口の増加と消火用水・灌漑用水確保のため、導水路の延伸と広瀬川からの直接取水を計画。取水位置は現在の郷六取水地点より8000m下流であった。その後広瀬川の河床低下により現在地に遡ることになった。本流は広瀬川郷六から4ケ所のトンネルにより、大崎八幡を経由して北六番丁を東進し、梅田川に注ぐ延長7,620mである。


 城下に引き込むため3本の支流により還流させ、総延長は48kmに及び元禄年間(1688~1703)に完成した。


 四ツ谷用水の本流は、現在も仙台圏の工業用水として、400年の歴史を受け継いでおり、「土木学会選奨土木遺産」として平成28年12月11日認定されたのである。

▲女性会員等交流会集合写真

副会長 武地 哲三