雑記帳第4回「終わった人」に思う


 映画「終わった人」が評判です。タイトルがタイトルだけに私も気にかかっていました。この映画は、内館牧子さんの同名の新聞連載小説を映画化したもので、主演が私と年齢の同じ舘ひろしさんということもあって映画も興味があったのですが、私なりのイメージを描くため、あえて原作を読んでみることにしました。

 この本でいう「終わった人」とは、もちろん人生の終わりの意味ではありません。学校を出て、社会人として長年心血を注いできた仕事、言うならば第一の人生を定年で退いたという意味です。この主人公は、わが国の最高レベルの大学を出て大手銀行に入り、ずっと同期トップの出世コースを歩んでいたにもかかわらず、社内派閥の力学で50歳を目前にして社員30人の子会社に出され、その会社で専務として定年を迎えます。満たされぬ思いを抱えながら新たな仕事を探しますが、出世コースを外れたとはいえ世間から見ればそれ程の高学歴の元大企業幹部など、どこも敬遠して雇ってくれません。

 そんなある日、健康管理のために通っていたジムで時々見かける一人の若い男から、その男が創業した企業の顧問就任を懇請されます。社員40人の小さな会社で、業務内容もIT関係で銀行とは畑違いですが、昔の血が騒いで、その話を引き受けます。就任してみると、水を得た魚の如くいきいきとした生活が戻りましたが、3か月後その社長が急逝するという事態の中で、社員から押されて急遽社長に就任することになります。しかし、不運にも約1年後に取引先の倒産が契機となって会社の資金繰りが苦しくなり、間もなく倒産に追い込まれてしまいます。しかも、社長の故に負債処理の責めを負って個人資産も殆ど失うことになり、これが原因で家庭も崩壊状態に陥ります。結局職業人として生きることを諦め、鬱々たる日々を送るうち、生まれ故郷の盛岡で震災復興のためのNPO活動に打ち込んでいる高校同期の友人から助力を頼まれ、そこに骨を埋める覚悟で新天地に赴きます。

 ざっとこんなあらすじですが、こういう筋立てから何を読み取るか、人それぞれでしょう。私の解釈はこうです。人は歳をとって、社会的には「終わった人」になっても、なんらかの形において自分の力が社会で生かされるような場面を持ち続けることが元気に生きる基本なのだというのが内館さんのメッセージではないか、ということです。

 先日所用で仙台市内を車で走っていた時のこと、西公園沿いの歩道に茂っている大きな街路樹の根元にかがみ込み、背中を丸くして雑草を摘んでいる年配の女性を見かけました。わき目も振らずに一人で黙々と作業を続けるその姿からは、<一隅を照らす>の言葉が思い起こされ、何かしら神々しささえ感じた次第です。

会長 小林 伸一 記