仙台西部支部「浅田次郎『流人道中記』に見る七北田刑場と青笹不動尊」


 「行列は芭蕉の辻を右に折れ、奥州街道の目抜きを北へとたどる。 ~ 中略 ~ 途中の林のほとりに青笹不動と呼ばれる祠があり、岩間から湧き出る清水もあって、仕置場に向かう者はここで末期の水を飲むことが習いであった。下馬は許されない。科人は後ろ手にくくられたまま御不動様に往生を願い、差し向けられた水を啜る。」この小さな石造りの不動明王像を祀った青笹不動尊の祠は昭和53年から昨年まで、仙台北郵便局向いにありましたが、隣接の中嘉屋食堂がたんや直売店に店舗替えした際、由来を明記した案内板とともに跡形もなく撤去されてしまいました。もともと、この祠・石碑等は(一社)青笹不動尊奉賛会が管理・所有する物件だったらしく、この法人は今年3月に解散しましたので恐らくたんや側が引き取り処分したものと思われます。この経過や不動明王像のその後について、仙台市文化財課に照会してみましたが、私有物件であり全くわからないとのことでした。ここを通過する度、あの朱色の屋根のほっこりした祠を思い出し、ちょっと寂しい気がします。
 奥州街道沿いにこの青笹不動尊から鷺ノ森を経て、仙台川にかかる「暗角橋」(くらすみばし)で裸馬から下され、家族と最後の別れをしたといいます。国土地理院の昔の地図で見ると、ワッセ仙台の裏にあたります。昭和38年まで元黒松ボールがあった付近に橋げたが残っていたといいます。「青笹の茂る丘を下り切ると、茫々たる曠野に出た。あたりには人家も見当たらず、この陽当たりなら畑も養えるであろうに、やはり不吉な土地なのだろうか。 ~中略~ 遥か行く手に、退きそこねた天の朱を零したような空地が見えた。僕の足は枷をかけられたように重くなった。そこが七北田の仕置場だとわかったからだった。」明治維新まで180年間に7000人余を処刑したという七北田刑場跡の案内板・地蔵等は向原バス停のすぐ先にあります。もともと刑場は、地下鉄八乙女駅周辺だったそうで、地蔵等も刑場入口だった向かい側のゆず庵八乙女店の裏にありましたが、昭和54年県道拡幅工事により現在地に移転したとされています。今でも香花が絶えることがないようです。