
伊達政宗は、慶長5年(1,600)12月24日千代城(現仙台)築造のため縄張りをし、翌年4月工事中の仙台城に入る。
仙台城は、慶長7年(1,602)一応の完成を見たことから岩出山城の家臣・町人・寺方併せて人口5万2千人余りを仙台城下に移動させる。
仙台城下は不毛の地であり、現地名の二日町や昭和町(不動池)・雨宮町(深田)・清水小路(谷地小路)等葦原の野谷地であった。城下町づくりは地盤と地下水に恵まれたところから開発していく。街道を構築するため微高地を選定し、現在の奥州街道として整備された。
この湿地滞を解消するため最初に手掛けたのは、排水路の掘削をして広瀬川に流し、乾地化を進める必要があった。城下の台地は河岸段丘で南東に傾斜していることから水路を掘削することにより自然流下で排水が可能であった。
その後、城下の家臣や町人の人口増加により生活用水(飲料水・炊事・洗濯・風呂等)や消防用水等が不足することになる。生活用水や消防用水を確保するための最初の取水は、大崎八幡宮西部の湧水群(箱清水・山上清水)から求め、集水して北六番丁の本流により東流させる。城下への用水供給は開府当時から乾地化のため掘削していた水路に分水し、城下用水として利用していた。
また、城下の拡張に伴って増大する生活用水や消防用水、灌漑用水等を確保するため、安定した水量を確保する必要があったことから、川村孫兵衛重吉は、広瀬川からの取水を計画し、四ツ谷用水工事に着工する。
城下に水を引くためには、箱清水地点の標高は、直下の広瀬川の河床から20メートル以上も高い位置にあり、広瀬川を遡らなければならなかった。
広瀬川からの最初の取水地点は、現在の取水地点よりも810メートル下流であったが、幾多の洪水により現在の郷六地点まで遡り、4個所のトンネルを経て八幡町へ流れ梅田川に合流する。
四ツ谷用水の本流7.6キロメートルは、現在も工業用水として利用されているが、支流の第1・第2・第3支流約33.8キロメートルは時代の変遷とともに埋め立てられ、現在は支倉堀の一部が残されているに過ぎない。用水堀の延長は47.72キロメートル・排水路の延長は13.74キロメートルで総延長61.46キロメートルに達する。
四ツ谷用水は
※1. 土木学会選奨土木遺産として 平成28年(2016)12月11日認定される。
※2. 中学生の社会科歴史「日本の歩みと世界の動き」に、令和7年度(2025)に帝国書院出版に掲載され教科書として採用される。
※3. 「四ツ谷用水をさがして(まちの安心と安全がここにある)」を令和4(2022)3月15日仙台・水の文化史研究会として自費出版する。
副会長 武地 哲三