10世紀初めの延喜年間(901年~923年)、醍醐天皇(在位897年~930年)の勅命で、由緒正しき神社として「神明帳(じんみょうちょう)」に記載された神社を延喜式内社という。 朝廷の出先機関として各地に国府が置かれており、各国府の国司は管轄している土地の延喜式内社を回り、自らが祭事を行うこととされていたそうである。国司自らが祭事を行うと言っても、多賀城は現在の福島県、宮城県、岩手県にあたる陸奥国31郡(こおり)を治めており、管内は広いし、道路状況も悪い。交通手段はと言えば、徒歩かせいぜい牛車か馬車。しかも雪も多く寒い時期は行きたくないと思うのも人情であろう。 そこで、多賀城では国府の近くに陸奥国31郡の15大社と85社、合計100社の祭神を1か所に合祀してこれを陸奥総社宮と称し、そこにお参りすれば、100社全部に行ったことにするという便利な神社を建立した。各国府にも同じように総社宮が置かれていたようである。 合理主義というのか横着者というのか、評価が分かれるところではあるが、いつの時代でも頭のいい役人はいるものである。もっとも、この当時は、都に居住したまま現地に赴任しない国司(揺任国司)が一般化しており、部下が代理で治めていたというから、総社宮建立も当時の役人の間では「常識」であったのであろう。 この時代にオンブズマンがいたら何か言われそうな気がするのは私だけであろうか。あるいは働き方改革の実践者と評価されるのであろうか。 縁あって利府に転居後、陸奥総社宮にお参りし始めてから20年以上になる。もしかしたら100社全部の御利益があるのではないかと期待して参拝しているが、1社分の少ないお賽銭で総社の御利益というのはいくらなんでも虫が良すぎる。「欲たかり」と言われそうな気がする。もっともこれまで宝くじで高額賞金が当たったこともないし競馬で大儲けしたこともない。しかし、健康でいられることが最大の御利益なのだろう。 |
副会長 千葉 裕一 記